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川越とサツマイモ

最終更新日:2015年1月3日

川越イモって?

 川越はサツマイモのイメージが定着しているよね。でも、どうしてなんだろう? その始まりは江戸時代にまでさかのぼるんだ。
 サツマイモ栽培が盛んに行われるようになったのは江戸時代のことで、当時、「川越イモ」とは、武蔵野台地の川越藩とそこに隣接する他領の村々で生産されるサツマイモのことを指したんだ。現在で言うと、川越市の他、所沢市、狭山市、新座市、三芳町にあたる大きな地区なんだよ。
 この地区では、1751年(青木昆陽の栽培法確立から16年後)にサツマイモの栽培が開始され、昭和30年代まではとても多くの生産量があり、一大産地だったんだ。
 でも、今では、ほうれんそう等の葉物野菜に押され気味で、あまり多く栽培されてないんだ。

川越イモのはじまりは?

 川越地方で初めてサツマイモが栽培された場所は、現在の所沢市・南永井というところだよ。
 その土地の名主だった吉田弥右衛門さんは、当時のサツマイモ栽培の先進地である上総国志井津村(かずさのくにしいづむら、現在の千葉県市原市椎津)から種イモ200個を取り寄せ、栽培を行なったんだ。これが川越イモのはじまりなんだ。
 吉田家には、今でも、当時を記録した古文書(吉田家文書)が残されていて、所沢市の文化財に指定されているんだ。
 また、吉田家の庭には「川越イモ始作地」の記念碑があるんだ。

川越=サツマイモはなぜ?

 川越にサツマイモのイメージが定着したのは、寛政時代(1700年代末)のことで、このころの江戸では焼イモが大ヒットしていたんだ。
 理由は、サツマイモが庶民の食べ物では、数少ない甘い食べ物であったこと、そして、とても安く手に入ったからなんだ。
 この大ヒットを受け、近郊の村々では、こぞって江戸向けのサツマイモを栽培したんだ。中でも、川越イモは、質がよく最高級品とされていたよ。
 また、サツマイモは、重くてかさばるため、陸路での搬送に向いていなかったことも川越に味方したんだ。
 川越は、江戸と新河岸川で結ばれているから、船での運搬に向いていたんだ。このためたくさんのサツマイモを出荷できたことも大産地となった理由の一つといえるね。
 このように質も良く、流通量も多かったことで、天保時代(1830年ごろ)の書物「諸国名物番付」には、サツマイモの代表産地として川越地方と記載されていたんだ。ここから
川越=サツマイモというイメージが定着したんだね。
 ちなみに、当時の焼芋屋さんは、「栗(九里)より(四里)うまい十三里」と看板に書いて焼イモを売っていたんだ。これは今でいうキャッチコピーのようなものだったんだ。

サツマイモの栽培方法の秘密

 サツマイモの栽培方法については、「サツマイモの育て方」で説明したけど、この方法を確立したのは、川越地方の赤沢仁兵衛さんという人なんだ。
 仁兵衛さんは、種イモの選び方、肥料のやり方、うねの立て方などサツマイモを作る行程について、慶応2年(1866年)から研究を開始し、「たくさんイモができる良い苗を選ぶ」、「うねを高くする」、「堆肥をたくさん入れる」など、現在に通じる栽培方法を見つけたんだ。
 明治4年(1871年)の調査では、仁兵衛さんの畑では他の畑の1.5倍から2倍の収穫量があったと記録が残っているよ。
 仁兵衛さんは、「赤沢式」と呼ばれた栽培方法を惜しむことなく広め、明治43年(1910年)、73歳の時に「赤沢仁兵衛・実験甘藷栽培方法」というサツマイモ栽培に関する書物を残したんだ。

お問い合わせ

産業観光部 農政課 経営支援担当
〒350-8601 川越市元町1丁目3番地1
電話番号:049-224-5939(直通)
ファクス:049-224-8712

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